鼻が出続け、喉がイガイガし、「風邪か?」と書いたのだが、結局本当に風邪だった。

風邪が治りかけているとき、力が戻ってくる感覚は素晴らしい。こんなに色々なものを自分が持っていたのかと思う。僕は数年前夏風邪で嗅覚を半分以上なくしてしまった。嗅覚脱失というらしい。はじめはひどく落ち込んだが、次第に慣れてきた。料理も、好きだった珈琲もまたいれるようになった。それまでは自分の味や匂いへの敏感さに自信があったのだが、匂いがほとんどわからないと味の感じ方も変わってくる。それでも、その中で十分に楽しもうという気持ちになってくる。結局誰しも持っているものは同じではないので、そういうことだ。

弟は生まれつき耳が聞こえない。聞こえないというのは正確ではないが、110db以上の重度難聴だ。2歳半離れた弟が、初めて「他の人は耳が聞こえて、自分は聞こえないんだ」と自覚した瞬間のことを覚えている。本人が覚えているか知らないし、しかも具体的な切っ掛けは思い出せないが、そのときの弟の目や驚き、静かな落ち込み方を覚えている。まだ幼稚園に通う年齢で、友人の親の車の中にいた。一体どうすればいいかわからなかった。その時の弟の喪失感というか、喪失に気づいたときの感覚は、自分には到底わからないものだが、歳を重ねた弟はそれをその喪失をその時よりもはっきりと理解しながら、その上で、その喪失感を埋めてきた(そして持ち続けてもいる)のだと思う。すごい。

そういう例が身近にあったこともあって、そして時間の助けもあって、自分の感覚がなくなることに慣れてきた。人が毎日死に近づいていることを考えると、同じようなことはこれからもどんどん起こっていくだろう。人によっては別の感覚の欠如や長引く怪我や持病や親がいないことや、それぞれの限界で世界と向き合っているのだろうと思う。僕もどんどん膝が悪くなったり、このまま禿げていくわけだが、まあそういうものだ。

寝てた間、机の上にそのままにしていた珈琲を飲んだら、酸化した軽い刺激のある渋みの奥にうまさも残っていて、つい飲んでしまった。スピーカーから音楽を流したらとても気持ちがいい。実家の庭に咲いたモッコウバラを切って、メルカリで買った薄い青い器にいけたら涼やかに見えた。他人が吐き出してしまうような味かもしれないし、他人が高校生の頃にしか聴かない曲かもしれないし、他人がみたらよくわからない行動かもしれないが、みんな自分にとっては良いことだった。自分がわかることしかわからない。世界のことはわからないが、世界というのがもともとあるものなのか、他人の主観の集合体なのかもわからないが、とにかく、自分が良いと思うことを言ったりしたりするしかない。それは自分が良くなるということだけでなく、自分が良いと思うことだ。

まあ、当たり前だが……!