パーフリとかまってちゃん。

伊藤剛フリッパーズギター以来の共感! と言っていたと友人から聞いたので思ったことを。

『ヘッド博士の世界塔』一曲目で、小沢健二は「本当のこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」と歌いました。*1今となってフレーズだけ抜き出してみれば、本当のことは夏休みが終わらないと分からないだろこのボンボンがなに甘ったれたことを言っているのまりなを返せこのやろうということも確かに可能ですが、終わる季節のはかない素晴らしさがやはりこのアルバムにはあるように思える。

で、かまってちゃんの初期の曲に「23歳の夏休み」というものがあります。去年の夏23歳でまだ大学生だった僕は、これをようつべで聴きまくっていました。しかしそれは正しい解釈とは言えなかったと思う。本来23歳とはモラトリアムが完全に終わる年です。の子は大学には行っていません。この曲の夏休みはあくまで架空のものなのです。

僕はそこにフリッパーズにはない、かまってちゃんの自分たちへの冷めた視線とそれ故の痛々しさが見えるのでないかと思っています。愛する音楽への言及を詰め込んで作ったフリッパーズの3rdは彼ら自身語っていたように紛れもない大ポップアルバムでした。それは構成的にそれをさらに徹底したコーネリアスfantasma』の予兆とも取れる。そしてそちらで切り捨てられたかに見える夏休みの問題*2小沢健二のシングル「buddy」で登場しています。両者とも、二人で組んでいた時のあの甘ったるさこそ抜けていますが、そこにはやはり楽しいものとして夏休みを乗り切ろうという姿勢が共通して見えます。終りは必ずやってくる、しかしホンモノの夏休みを彼らは生きているのです。

なので今年もやってきたニセモノの夏休みを、ギアあげまくった自転車を飛ばしてやり過ごす、という神聖かまってちゃんは彼らとは違う。そして違うかたちで良いのだー、という感じです。いずれ終わる季節にいることの美しさではなく、虚構の季節にいることで得られる切実な美しさがあるんじゃないのという。*3

*1:当時小沢は23歳で、大学生

*2:本質的には小沢と同様切り捨てていない。ファンタスマは、小山田自身最後のトラックで「僕のくだらない旅」と言及しているように、60年代アメリカ軽音楽を中心に再構築した彼の音楽的ユートピアを巡る、やがて終わる旅でした。この時間的な終りを意識した作りが、この文章でいうパーフリ的夏休み感覚なのですたぶん。

*3:駅前のツタヤとか言ってしまったり、同級生の名前を出したりしてしまうかまってちゃんのほうが現実に近く、むしろ衒学的引用に支えられたパーフリこそ虚構なんじゃないの、という指摘があるかもしれない。その通りである。問題の理由は、ホンモノの夏休み(モラトリアム)自体が虚構性を持っているということ。その夏休みがパーフリを浮遊した音楽にし、架空の夏休みにいる(というか無職でありニートであったので夏休みがない)かまってちゃんを「死にたいなあ」「死ねよ佐藤」とか現実への違和を叫びながら、たまに躁転して自転車こぐくらいしかやることがないかんじにしているんじゃないかと思う。ただし一番上の記事で書いた「美ちなるほうへ」はその先の話だと思っている