全くまとまった文章を書く機会がないので、新しくブログを作ろうかと考えていた。好きなものについて書こうと考えていた。しかしブログサービスの比較検討をするのは面倒くさい。そうして時間が過ぎていっている。とりあえず日常雑記的なここを一度再開して助走をつけたい。そう思って書いている。
相変わらずすることもない。ただ春にはじめてカウンセリングを受けた結果、自分の状況と精神状態が少し整理され、楽しめるときは楽しめるようになっている。楽しんでいる。しかし、することはない。することが生まれた瞬間、人生の時間は圧倒的に足りないなあと思うのだろう。今は圧倒的に暇だ。
その暇を素晴らしいものとは思っていない。いや、素晴らしいこととは思っているが、それでも人生は楽しいや美味しいや気持ち良いを集めるだけではないような気がしてきた。暇は素晴らしいが、暇でありつづけることはそんなに素晴らしくない。楽しい美味しい気持ち良いだけでなく、自分の意志や、それを満たされたときの嬉しいがあったほうがいいような気がする。あるいは没頭があったほうがいいような気がする。楽しいは没頭かもしれない。
少し散らかってきたので別の話をする。スチャダラパーの素晴らしいアルバム『WILD FANCY ALLIANCE』に「ヒマの過ごし方」という曲がある。Youtubeで曲ごと貼ろうと思ったが、Sony Music Entertainment.incによってブロックされている。(「ヒマの過ごし方」の歌詞 うたまっぷ)曲はこう始まる。

「ヒマだねー」ってよく 言われるぼく/言われると確かにそう思う/気が付くと何だか罪悪感/感じてる自分こそなんだ/そもそも「ヒマ」って言葉自体/まずいい意味では使われない/辞書でヒマってひいてみた/これもまあ ヒマのなせる業/ヒマ=自由な時間 仕事や義務に拘束されない時間/確かに その人にしてみれば/ぼくはヒマに違いなかったが/その間ぼくはテレビを見たり/ファミコンしたり本を読んだり/時間について考えたりしながら /ぼくはぼくのヒマを過ごしていた/そんなヒマがあったらって言うが/みんなヒマは嫌いなのか/ヒマはダメか?悪いのか?/そんなに嫌かヒマが?

悪いものととられがちな暇は、実は全然悪くない、という話をしている。この後、むしろ「怖いのは、ただただある時間」、暇を恐れるのは不安に耐えられないためだろう。実際世の中の多くのもの(「大仏」「ピラミッド」「巨乳」「万里の長城*1)は暇から生まれてきたのだ。暇を受け入れられないのは能力の減退であり、そもそも仕事もファミコンも、全ての行動が人生の暇つぶしの一つの形であって、万人が万様の暇を持っていることを理解し、進んでいくべきなのだ。そう展開する。
この曲を知ったのは10年前くらいで、以来若干の後ろめたさを感じつつも好きな曲であり続けたのだけれど、この曲を「人生はヒマつぶし」と思って聴いていた。しかし今思えば、暇を使ってなにかやりたいことをしている人*2というのはとても忙しく、むしろ本人にとってはそれは暇ではないのだ。それは没頭だ。
他の人から暇と言われても、自分では価値があると思って邁進している。やりたいことをやっている。それが「ヒマの過ごし方」に出てくるヒマ人かもしれない。というか自分がなりたい暇人なのだと思う。「ヒマの過ごし方」ではヒマと言ってはいるが、そのヒマを生きる本人にとっては暇ではなく、充実した時間であり、人生だ。最近はそう思っている。暇を罪悪感を持ってすごしても得られることは少ない。他の人の考え方や社会の要求を必ずしも自分が内面化する必要はなく、自分の暇を堂々と過ごすしかない。「人生はヒマつぶし」かもしれないが、すくなくとも自分にとっては意味のある暇つぶしであったらよい。きっと楽しい。

ヒマを見つけて ヒマを知れ/ヒマを生き抜く強さを持て/一生 棒にふるくらいの/ヒマとゆとりを持って進もう/人の数だけヒマはあるのだ/それこそあたりまえの事なのだ

これはいいですね。こうありたい。

*1:3つめのボケは置いておくとしても、今考えればこれらの芸術は大きな国家権力があって初めてできるタイプのもので、暇の結果かと言われるとそうではないような気がする

*2:やりたいこととは将来成し遂げたいことのためにする努力、今やりたいことをただやっていること、そのどちらにも使うが、今は後者のほうが重要だと思っており、そのことだとして書いた。