行き詰まっている。昨夜ここで、行き詰まりを説明しようとしていた。現在の行き詰まりを拡大していくと過去の自分があらわれ、自分の育った家庭があらわれる。それについて書く必要が出て来る。拡大は無限にできる。文章を終わらせることができない。そして着地する先の現在について自分が受け入れきれていないので、文章を公開する踏ん切りもつかない。その状態で自分の歴史を語っても言い訳の集合のようになるだろう。一理を紛れ込ますことができても、生産的なものではなさそうだ。ということで一旦保留する。今日は良い日だったので、それを書くことにした。

今日は夕方から外出し、夕日を見た。この一年、すっかり夕日にはまっており、元気があるときは見に行く。まあまあ都会に住んでいるので、日が沈むのが見える場所は限られてくる。今日は電車に乗って河原に行った。とても好きな場所だ。

雲が少なく晴れていた。春の陽気でコートも着ていない。河原につくと、ちょうど西の空の低い雲の裏に太陽が隠れていくところだった。草むらを移動しながら最後の光がよく見える場所を探した。雲の輪郭がオレンジ色に燃え、周りの空も輝いている。立っている河原には緑の草が生え、ところどころ昨夜の雨でできた水たまりが陽光を反射している。学生が二人、自転車でゆっくり土の道を通り過ぎていく。犬の散歩をしている人がいる。それらすべては西の空と並ぶととても暗くみえる。空のオレンジ色が白から青に変わっていくあたり、少し高いところに、引っかき傷のように細い雲ができる。少しずつ伸びるその飛行機雲も、沈む太陽の光を反射して強く光っている。気づくと近くにもう一つ飛行機雲が伸びはじめる。

今日は太陽そのものが沈む瞬間は見られなかった。低いところに雲があったからだ。こういうことは珍しくないが、それでもこうした周りの変化を見ているのはとても楽しい。南や北側の雲がピンク色に煙るのを見たり、今日もそうだったが、太陽を隠す雲の輪郭が光を受けてつよく輝くのを見たりする。空の色が濃い青色に沈むまで、まだ時間はある。その間、空全体が青さ暗さを増す中で、西の空やそこに浮かぶ雲の色はコントラストでハッキリと浮き立ち、また赤くなっていく。日が沈んだ後も、そうした夕焼けの残りを眺めていた。風が吹く。薄着のせいもあり、寒くなって後ろを向いた。すると大きな、まん丸い月がのぼっている。空はまだ暗くなく、月も淡い白から黄色に輝き出そうとしていた。とても良かった。心に来た。さっきまで眺めていた太陽の光がこうしてまた戻ってきているのが不思議だ。

月初めなので映画館をのぞく。空席があり、本屋をうろついて時間をつぶしてから、イーストウッドの『15時17分、パリ行き』を観た。前作と似た実話もので、舞台は列車ハイジャック事件だ。今回は実際の事件に巻き込まれた人間を本人役でキャスティングするという力技、にもかかわらず完全に映画として成立している。面白かった。部屋に貼ってあるフルメタル・ジャケットのポスターが暗示する展開や、旅行先でもやっぱり何か映画への言及に近いシーンが(具体的な内容は忘れたが……)あって、それを見ていたら、いつのまにか俺は映画が好きになっていて、この世界のこの文法をこんなにあたたかいものとして受け取っている、と思った。そういった言及に気づくのが作品理解に必須ということではない。「それぞれの人間に歴史があり、人はそれらを自分で語らなければいけない」というようなセリフが印象に残った。この映画自体について語ってもいるのか。俺もそうしたいなあ。みんながそうしたらいい。

映画のクライマックスでは実話どおりハイジャックが起こる。というか、起こりかける。犯人が暴れて乗客も撃たれ、血が流れる。映画館全体に息を詰めるような緊張がやってくる。その時、自分の左右に座る二人の気配がすこし遠ざかったのを感じた。両隣に座っていたカップルが、左右二組とも、お互い身を寄せて手を握り合っていた。スクリーンの薄明かりでかすかにそれが見えた。なんだかとても嬉しかった。日没時に見えた月の感動もまだ残っていて、2つの種類の違う喜びが別の音階で心に響いていた。これを書いている今もだ。こんなことは珍しい気がする。

片方のカップルはエンドロールの途中で出ていった。この映画の場合は少しもったいない。俺は映画館を出て、また本屋に寄ってから帰宅した。